館内に入ると、平日にもかかわらず多くの入館者で賑わっていました。障害者団体のみなさんも、車椅子で来られていました。幅広い訪問者があるようです。受付の女性の方が、障害者の団体のみなさんに説明をしていました。
その横に学芸員なのかどうかまでは分かりませんが、男性の係員もおられ、カウンターにある宣伝物を見ていると、いろいろと丁寧に説明をしていただきました。かなり詳しそうでしたので、ここがチャンスだと思い、いろいろと核心に触れる質問をぶつけてみることにしました。どういった返答がいただけるのか、どきどきわくわくでした。
「こちらにお伺いする前にも見てきましたが、男狭穂塚と女狭穂塚の二つの古墳は、宮内庁によって管理されていて立ち入り禁止になっているようですが、最近、男狭穂塚の調査がされたと聞きました。レーダーによる調査とありましたが、円墳の中心部にも入ったのでしょうか」
円墳の中心にレーダーで調査が入ったとなると、石室などの位置も調べられていることになります。はたして、宮内庁がそれを許可したのかどうか。
「調査には入りました。しかし、円墳についている方墳部分の範囲を確認する調査でした。中心部までは許可されていません」
「そうでしたか」
やはりといったところでした。宮内庁がよく許可したなあと思っていたのですが、地下には殆ど何もないような部分のみの調査だったようです。
さらに、気になるところを聞いてみました。
「男狭穂塚は、盗掘されているかどうかは分かっているのでしょうか」
「確かに盗掘されたような跡は見られます。しかし、玄室までには到達していないと見ています」
「そうですか!」
ということは、卑弥呼がそこに未だに眠っていて、あるいは、魏の国から授かったという『親魏倭王』の印もそこにあるかもしれないという希望が出てきました。本当に、その盗掘の跡が単なる『未遂』で終わっていたらの話です。そんなに甘い盗掘犯だったとも思えませんが、その係員の男性の言葉どおりであることを切に願うものであります。
大きな希望が出てきました。
さて、いよいよ核心に触れる質問です。どんな答えが返ってくるのでしょうか。
「その男狭穂塚という古墳は、卑弥呼の墓ではないかという説もあるようですが、どうなんでしょうか」
「・・・(驚いたようにわずかな沈黙)。コメントはできません。ただ、その古墳は、5世紀頃に造られたとされています」
「なるほど」
何と、『コメントできない』とは、意味深です。時代が異なるということのようです。
「最近は、それより1世紀ほど遡るのではないかという説も出ているようですが」
「そうですねえ。えっ、今日はどちらから?」
「山陰の方からです」
「そうですか」
ちょっときつい質問に驚かれたようです。
しかし、さらに続くのです。
「女狭穂塚は、卑弥呼の娘の市杵嶋姫、つまり魏志倭人伝に出てくる壹與ではないかという説もあるのですが、それはどうでしょうか」
「・・・それも、コメントできかねます。女狭穂塚は、髪長姫の墓と言われています。かなりお詳しいですね」
その男性は、すぐ側で説明していただいてたのですが、1歩後に下がられました。
「詳しくはないですが、詳しく知りたくてやってきたのです。もう少しお聞きしたいのですが、この西都原遺跡群のある地域が、魏志倭人伝に登場するところの女王国ではないかと思えるんですが、それはどうなんでしょうか」
「ノーコメントです。その質問にもお答えできません」
「なるほど」
先ほどの質問と同じようなことなのですが、やはりコメントできないということのようです。
しかし、そのいくつかの『コメント』には、むしろ感動すら覚えました。
『宮崎に来て良かった』
最後にもう一つだけ聞く事にしました。
「下から見ていても、古墳がよく分からないのですが、どこか上の方から二つの古墳が眺められるような場所はないのでしょうか」
「それでしたら、こちらの3階から見ることが出来ます」
「そうですか。この階上ですね」
「そうです」
「ありがとうございました。では、見てきます」
下から見ていても、その形状がつかめなかったので、博物館の上から見下ろすことが出来るとなると、きっとよく分かることでしょう。概ね、聞きたい事は聞けましたし、思っていた以上の『コメント』がいただけたので、あとは二つの古墳を確認するだけです。エレベーターで3階に上がると、先ほどの障害者の団体のみなさんがそのフロアーに集まっておられました。その横を通り、窓の外にある回廊に出てみましたら、周辺が一望できました。
『これが、魏の使者がやってきた女王国、邪馬壹国のあった場所なんだ』と、その眺めに感慨も一入でした。魏の国からやって来た使者は、どれだけの日数と苦難を乗り越えてここまでたどり着いたことでしょう。およそ1800年の後に、今、そこに自分が立ってその地を眺めているということに、ただただ感動するばかりでした。魏の使者も、きっとこのような風景を眺めたことでしょう。そして、卑弥呼もこの西都原で生きていたのです。風景は、当時とかなり変わってはいるのでしょうが。
しかし、今の時代にあって、この地に卑弥呼がいた事を、はたしてどれだけの人が知っているのでしょう。さらに、その卑弥呼の墓は、誰とも分からぬ人の墓にされてしまっています。これでは、きっと卑弥呼も草葉の陰で嘆いていることでしょう。その横で、母の不憫さに市杵嶋姫も涙しているのかもしれません。この国の歴史を偽造し、架空の人物の墓に仕立てあげた唐や藤原氏、そしてそれを未だに引継ぎ、その墓までも管理下にしている宮内庁を初めとした記紀史観にある人々に憤りを感じざるを得ませんでした。
分かっていながら違う人の墓にしてしまうのは、全くの、死者に対する冒涜でしかありません。
などと、一人で悦に入っていましたが、いつまでも眺めている時間はありません。
さて、卑弥呼の墓は何処なんでしょう?
あのあたりだろうかと思えますが、やはり森の中ですから、古墳の形が分かるといったことではありません。周辺には山もありますし、地図を見ながら、おそらくあの森のあたりだろうと推察するしかありませんでした。
しかし、西都原台地が見渡せる本当にいい場所にその博物館は建てられていました。そして、卑弥呼と市杵嶋姫母娘の墓も、そのすぐ下にあり、西都原台地の一番見晴らしの良い場所に造られているのです。
その風景を撮影し、再び運転手さんの待つ駐車場に戻り、最後に、西都原ガイダンスセンター『このはな館』に向かいました。
「どうでしたか?」
運転手さんも気になっていたようです。
先ほどの、質問やその『コメント』についてお話しました。
「『ノーコメント』ですか。それは、かなり驚かれたんでしょうね」
立場上、否定も肯定もできないということなのでしょうが、そういう中で、誰とも分からぬ訪問者に最大限のコメントをしていただいたと改めて感謝しました。そして、自分の考えていたことに間違いはなかったと実感することもできました。遠くからはるばるやって来た甲斐もあったというものです
そして、そこからは、途中、他の古墳を見たり、卑弥呼と市杵嶋姫の墓があると思われる森を撮影して、『このはな館』に向かいました。
そこは、観光客向けに、自転車が貸し出されていたり、レストランや数々の地元の商品が販売されていました。お昼をまわっていたので、さっそく昼食を済ませた後、ボランティアの方が案内をされているとのことで、ガイダンスコーナーへ行きました。ボランティアということで、あるいは、自由に自分の思いを聞かせてくれるかもしれないと期待しながらそちらへ行くと、自転車を借りに来た人や、周辺の地図を求めて来る人たちで賑わっていました。
忙しそうなので、少し人が減るのを待ち、頃合をみて聞いてみました。「あの古墳は5世紀頃に造られているので、少し時代が新しいでしょう」とのお答えでした。
ちょっと、それ以上の話にはなりそうにもありませんでした。
ということで、このたびの西都原遺跡の探索を終え、わが愛車のもとへ向かうことになりました。
しばらく、古代史の世界に浸っていましたが、思いっきり恐ろしき現実に戻る事になるのです。これから漏れるオイルを継ぎ足しながら1000キロを走ることを考えると、無事帰れるのか不安で一杯でした。家族には、そんな危険なことに付き合わせるわけにはいきませんので、JRで帰らせることにしました。
ここから先は全くの余談になりますので割愛しますが、とりあえず無事帰ることができ、修理も済んだことだけを記しておきます。途中、エンジンルームから白い煙が出て来た時は、『車が燃える!』とビビッてしまいました。行きつけの修理工場にすぐ連絡をとりましたが、『絶対に燃えることはありません』と言われ、何とかそのまま走りましたが、『燃えないと言われても油だろう』という心配は消えず、恐る恐る帰った次第です。
余計な事かもしれませんが、皆さんも、長距離を走られる際には、事前の点検を怠らないようお勧め申し上げます。
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