卑弥呼の墓を訊ねて 3

都農神社

 自分の車が、大変な状態に陥ってしまったので、タクシーで回ることにしました。40代半ばくらいの話しやすそうな運転手さんでした。その時の状況を話し、午前中に都農神社、都萬神社、そして西都原古墳群を見たいと言って、それぞれ案内していただくことになりました。初めての地を自分で探しながら行くことを思えば、楽な移動です。
 北の方から下ってくる事になり、まずは都農神社に行きました。
 そこに着くと、入り口のあたりは杉木立の中にあって静かな佇まいに思えましたが、中に進んで行くと、建て替えの造営工事中で、拝殿や本殿は取り壊されていました。仕方がないので、とりあえず周辺の写真を撮り、社務所でそこが発行している季刊『都神(TSUJIN)』をいただいて帰ることにしました。その『都神』のタイトルには都農神社の神紋であるところの『一』が頭に入れられていました。
 それを拝見しますと、9月9日に上棟祭があるそうで、来春07年3月の完成予定で工事が進められているとのことでした。来年にした方が良かったかなと、ちょっと残念に思いました。
 しかし、都農神社の神紋の『一』が、脈々と生き続けていることが確認できたのは大きな収穫でした。
 車で待つ運転手さんにも『都神』を1枚お渡しして、次の都萬神社に行くまでの間、しばらく車内で古代史の話になりました。その方は、以前ちょっと古代史に興味を持っていたこともあったそうで、こちらの話にも興味を示していただき、思わず話し込んでしまいました。 


都萬神社

 次に向かった都萬神社ですが、その所在する地名が妻で、神社名から推察しても、都農神社が『殿』、都萬神社が『妻』を意味するであろうことは、先に触れたところです。すなわち、西都市にある西都原遺跡周辺こそが、スサノオ尊の妻であるところの卑弥呼の里であったと考えられるのです。  
 となりますと、この地が、魏志倭人伝に出てきたところの、女王国、そして邪馬壹国を意味することになります。しかし、くれぐれも、それは邪馬台国とは違います。
 現在、都萬神社には、記紀史観にもとづき、木花咲耶姫が奉られています。木花咲耶姫はニニギ尊の妻で、結婚して一夜にして懐妊したということで、ニニギ尊は不信に思ってしまいます。そこで、木花咲耶姫は、産殿に火を放ち『もし貴方の子どもでなかったら私は焼け死ぬでしょう。貴方の子どもであれば無事に生まれるでしょう』と言って3人の子どもを産んだという逸話が残されています。
 この神社では、ちょっと目を引くものがありました。本殿に、『日本一の太刀』が奉納されて展示してありました。長さが約3.5メートルで、重さが約64キログラムというとてつもなく大きな太刀です。奉納されたのは、500数十年前となっていますが、その刀本来の由来は景行天皇の頃まで遡るとありました。あるいは、卑弥呼やスサノオ尊の頃だとも考えられます。
 また、この都萬神社の境内には、土俵がありました。相撲と神社とは歴史的にも深いつながりがあるようなので、その一端を見たような気がしました。
 こちらでも、撮影を済まし、社務所で由緒書をいただいて次に向かうことにしました。
 

西都原古墳群

 いよいよ、卑弥呼が今も眠ると考えられる『西都原古墳群』へと車は向かいます。西都市市街地の北西に隣接するように西都原台地が広がり、そこには、300を超える古墳群があります。その一帯は、当時の墓地だったのかもしれません。そのふもとには、魏志倭人伝に記されていたように7万戸の住居があり、そして、卑弥呼を偲ぶかのように、そこに都萬神社が建立されたということなのかもしれません。
 古墳群に近づくと、とても見晴らしが良く、広々とした台地が周囲に見渡せます。周辺には、あちこちに古墳が見えてきました。
 そして、その中にあるひとつの古墳の前で車が止まりました。
 「ここは、『鬼の窟(いわや)古墳』と言われ、中まで見れるようになっています」
 運転手さんの説明で、早速、車を降りて見学することにしました。何故鬼の窟なのかは、よく分かりませんが、この古墳は中心に円墳があり、その周囲がぐるりと土塁で囲われていました。卑弥呼の墓も周囲が同じように囲われているとありましたから、あるいは、ここと似たような造りなのかもしれません。
 この古墳の直径は37メートルとありました。卑弥呼の墓と思われる『男狭穂塚』は、直径約130メートルですから、この古墳よりもまだ100メートルも大きいのです。鬼の窟古墳も、その周囲の土塁の上に立って眺めますと、結構大きく感じました。直径がその約4倍もあるというのですから、卑弥呼の墓の大きさはとてつもないものだと感じました。
 石室は、そのそばに大きな楠木があり、その影響で崩れてきていたので、一度解体して復元されたと案内板に記されていました。その石室に入ると、下にも石が敷き詰められていて、かなり立派な造りのように思えました。
 
 
男狭穂塚 女狭穂塚

 さて、いよいよ卑弥呼の墓に向かうことになりました。地図を見ると、そこからほんのすぐ近くです。
 そして、およそ、その場所にやって来たのですが、古墳があると思われる区域は、ほとんどが木に覆われていて古墳があるとかないとかいったことすら分かりません。
 「おそらくこの森が、男狭穂塚と女狭穂塚でしょう」
 「これだと古墳の形も分かりませんねえ」
 運転手さんとその森を眺めながら、すぐそばの道を走っていました。
 「あっ、止めてください」
 「どうされました」
 そこには、立て札があったのです。
 「なるほど。やはり、そうか。ほら、宮内庁の管理下で、立ち入り禁止とあるでしょう」
 「そうですねえ」
 その森の周辺は、鉄条網で厳重に囲われていました。
 「ここまで、この古墳を秘匿する必要があるということは、やはり、この古墳の主が誰かを知っているからでしょう」
 立ち入り禁止どころか、森の状態にして中を覗くことすら拒んでいるようです。まずは、ここで十分な手ごたえを感じました。卑弥呼の円墳も市杵嶋姫の前方後円墳も、その境目がどこにあるのかも分からないほど一つの森の中に隠されていて、鉄条網も両方の古墳を囲うように施してありました。つまり、その二つの古墳には誰が葬ってあって、それが何を意味するのかも分かった上での囲いであるように思えました。
 「では、立ち入り禁止の立て札を撮影してきます」
 「えっ、あれをですか」
 「そうです。この宮内庁が立ち入り禁止をしているという表示が重要なんです」
 撮影をしながら、森の中の方も見ましたが、手入れもされていない雑木林といった状態ではなく、わりと綺麗にしてありました。やはり、相当重要な古墳といった扱いになっているのでしょう。しかし、これでは、まだよく分かりません。
 「この上に、博物館があるようですからそこに行ってください。何か分かるかもしれません」
 そこから少し上がったところに宮崎県立西都原考古博物館がありました。まだ、新しそうですから、最近建てられたところなのかもしれません。どんな博物館だろうかと少しワクワクしながら階段を登っていきました。
 
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