卑弥呼の墓を訊ねて 5

卑弥呼を考える

 卑弥呼の里は、宮崎県の西都市にある西都原台地の周辺であったということがかなり有力になりました。そして、その墓は、西都原台地にある古墳群の男狭穂塚古墳であると、ほぼ特定できました。
 その横には、寄り添うように娘の市杵嶋姫、つまり壹與でもありますが、その墓である女狭穂塚と呼ばれる九州最大の前方後円墳がありました。
 さて、このように卑弥呼の里、あるいはその墓も特定できたとして、では卑弥呼にまつわる謎が解明されてしまったのかと言えば、そうでもありません。
 そうなるとそうなったで、そこから、また新たな謎が生まれてくるのです。一番気になるのは、卑弥呼、あるいは卑弥呼一族はどこから来たのかということです。
 記紀では、この列島やそこに住む人々は、神々の手により誕生したことにしていますが、現実世界においてはそんなことはあり得ません。この列島で人類が誕生していない限り何処からかやって来ているしかないのです。一番考えられるのは大陸からの渡来です。やはり、この列島には朝鮮半島を経てやって来た民族が一番多いのでしょう。この国の人々には、殆ど乳幼児期のお尻に蒙古斑が現われます。すなわち、祖先の多くは蒙古、つまりモンゴル周辺からの渡来人であったということになります。また、その渡来人の血統を受け継いでいるということになります。
 また、大陸との交易を考えますと、北九州が玄関口になりますので、中心的な勢力はそのあたりを制覇していたことでしょう。博多湾にある志賀島で発見された金印は、そのことを意味しています。金印に『漢委奴国王』とありますように、漢は、この列島における代表権を奴国の王に委ねていたということだったのでしょう。
 やはり、何と言っても北九州が大陸との最も近い接点に位置していることを考えますと、この列島の表玄関でもあるその地に、一番力を持っている勢力がそこに存在したということではないでしょうか。
 魏志倭人伝では、九州に於いて、卑弥呼のいた女王国が大きな力を持っていたように描かれています。しかし、よく考えてみますと、奴国の王のように、博多周辺、あるいは北九州にいた勢力こそが、一番大きな勢力を誇っていたのです。それが、何故、遠く宮崎のあたりにいる一族が九州を制覇できたのかという疑問が出てくるのです。北九州のあたりから、かなり苦労して女王国にまで到達しています。それは、逆に考えれば、卑弥呼の国から北九州にいくつもあった国々を制圧するということは、当時の交通を考えますと、かなり大変です。
 また、そういった征服をしようという発想があれば宮崎の地にいることはなく、北九州に近いところに本拠地を移すでしょう。あるいは、卑弥呼が征服したのであれば、卑弥呼が北九州の地に居を構えることになっていたとも思われます。
 しかし、卑弥呼は、西都原台地でその国を構え、そこで亡くなっています。その古墳群をみても、そこを拠点としていたと考えられます。とすれば、実際は、卑弥呼の勢力が九州を制圧してはいなかったと考えられます。
 つまり、「倭国大乱」の中で、出雲の勢力がまず九州を制圧し、卑弥呼の国は、出雲の所謂同盟国としての役割を果たしていたということです。出雲の勢力が入ってくるまでは、宮崎の地で一つの国として暮らしていたのではないかと考えられるのです。そして、スサノオ尊の九州制圧の中で、その国家的象徴として君臨することになったということではないでしょうか。
 そして、スサノオ尊と卑弥呼の間に生まれた市杵嶋姫も、宗像大社や厳島神社、宇佐神宮など各地でその統合の象徴として奉られることになるのです。卑弥呼の『一』と出雲の『大』の合体でその統合した勢力の国家的象徴を『天』を築いています。また、『一大国』あるいは『一大率』としても魏書に登場しています。
 では、元に戻りますが、出雲に征服されるまでは、宮崎の地で独自に暮らしていたとして、その卑弥呼一族は何処からやって来たのかということになるのです。
 つまり、朝鮮半島からの渡来だとしますと、その後の交流を考えますと、日本海側に近いことがその居を構えるところの条件となるでしょう。九州であれば、北九州、少なくとも熊本や大分の辺りなどを選ぶ事でしょう。
 宮崎の地は、大陸との交流を考えますと、九州では最も遠い場所に位置します。
 としますと、大陸との交流はあまり考えていないというか、元々大陸との繋がりの無い一族だったのではないかと推察できます。
 では、宮崎の地にやって来るルートとしては、どんなルートが考えられるでしょう。朝鮮半島からのルートではないとしますと、南方から黒潮に乗ってやって来たということが有力となります。
  
 
卑弥呼は何処からやって来た?

 卑弥呼一族は、その地理的な面から考えますと、大陸からの渡来というよりも、南方から黒潮に乗ってやってきたという可能性の方が高いように思えます。
 そうしますと、卑弥呼をとりまく新たな謎が出てきます。
 この列島には、古代文明の栄えたシュメールからもやってきているという説もあります。
 それも、かなりの規模だそうです。
 つまり、中東からこの列島まで渡来した民族があったということです。
 その中東からの渡来の痕跡を今に伝えているのが、伊勢神宮の内宮の御神体です。その御神体については、いろいろと本が出されていますが、多くの謎に包まれています。
 その御神体は、鏡だと言われています。
 そして、その鏡には、古代ユダヤ文字、ヘブライ語でモーゼの言葉が刻まれているというのです。
 「我は有りて在る者なり」(Iam that Iam)
 そういう意味の言葉が記されいるそうですが、それはモーゼを証明する通信上の暗号、つまり合言葉のようなものだったとも言われています。
 明治時代、言語学者でもあった文部大臣森有礼は、これに関心を示し内宮を参拝した折に、その御神体である鏡を覗いたため神宮の関係者に刺殺されたと言われているくらい謎に満ちています。(資料)
 その鏡は、卑弥呼一族が、中東からその一族の象徴としてもたらしたものだとも考えられます。そういった歴史をもつ一族だからこそ、スサノオ尊は、卑弥呼を国家的象徴として称えたのでしょう。そして、出雲王朝を滅ぼした唐王朝の手に渡り、唐王朝の勢力の神である武則天たる天照を奉る伊勢神宮の御神体とされたのかもしれません。
 また、卑弥呼が、モーゼの言葉が記されている鏡を持っていたということになりますと、卑弥呼あるいは卑弥呼一族が、王かあるいはそれに比類する何らかの証明として授かったとも考えられます。
 その鏡は、はたして何を証明するものだったのでしょう。
 これが、魏書で『事鬼道、能惑衆(鬼道に従い、よく衆を惑わす)』と記された卑弥呼の素性を明らかにすることのできる唯一の手掛かりなのかもしれません。あるいはユダヤやキリスト教などと何らかの関わりがあったのでしょうか。
 伊勢をローマ字で表すと、ISEですが、それはIESにもつながります。
 西暦30年頃キリストが処刑され、西暦63年には、ユダヤ戦争が起きます。当時の抗争や迫害を逃れて中東からやって来たという構図もまったく無いとも言えません。伊勢(ISE)とは、元々は、イエスあるいはイエスと関わりのあった卑弥呼が奉られていたということなのかもしれません。
 中東と日本には、今でも同じような苗字があります。また、顔の良く似た人たちもいます。
 何らかの関わりがあったのかもしれません。
 中東だけに関わらず、この列島には数多くの民族がやってきています。
 そこには、数々のドラマがあったことも考えられます。
 ところが、記紀では、この国のそういった多民族が入り混じった状況を、一切無視しています。万世一系を基本とする記紀史観により、そういったドラマや伝説が消されていったとしたら、民族的悲劇とも言えます。
 古事記の序文では、「今この時において、その誤りを改めないならば、幾年も絶たないうちにその本旨は滅びてしまうであろう」と記されています。
 あるいは、その本来の意味は、こういった民族の歴史が消されようとしている状況に対する憂いだったのかもしれません。
 もし渡来人であるスサノオ尊もその遠い祖先が中東で、卑弥呼の素性を理解できたとしたら、卑弥呼を女神として奉る思いは容易に理解できます。
 伊勢神宮に保管されている御神体とされている鏡にはには、とてつもない秘密が隠されているようにも思えます。それゆえ、誰の目にも触れさせないようにしているのでしょう。
 その材質も含めて科学的検証に付されるべきです。それは、全世界をも驚愕させるかもしれない歴史的資料だと言えます。
 そして、今も卑弥呼は、西都原台地で、静かに眠っています。
 はたして、歴史の真相やいかに・・・
 
 
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