31、
次の日は、昼間の仕事を終えてから、家族そろって食事に出かけた。
家に帰った頃には、少々疲れ気味の恒之だった。
「今、お茶を入れるわね」
恒之が居間で横になっていると、台所から洵子の声がした。
そして、しばらくすると、由美がお盆を手にしてやって来た。
「はい、お待たせ」
「ありがとう」
我が家のお茶を飲み、恒之はホッと一息ついた。
横で由美もくつろいでいる。
「お姉ちゃんの携帯が鳴っているよ」
台所から明代の声がした。
「ありがとう」
恒之は、彼氏からのメールかなあなどと思っていた。
由美が携帯を見ながらまた居間に戻って、恒之の横に座った。
「ふうん。そうだったの」
由美はかなり長いメールを読んでいる。
『彼氏じゃなさそうだ』
恒之は、まだ少しお茶の残っている湯のみを手にした。
「玲子、よく調べたわね」
由美は、メールを読み終えたようだ。
「どうしたんだい」
「帰る前に、玲子から耳寄りな話を聞いたって言ったでしょう。今も、玲子からだったの」
「そうだ。何でも、藤原氏に関わることだというから、どんなことなんだろうと思っていたんだよ」
「藤原氏って出自がよく分からなかったでしょう」
「謎の藤原氏だよ」
「どうもね、唐から来ているそうなのよ」
「唐だって!」
「玲子が、いろいろ調べていたらそういう説があったそうで、かなり信憑性が高いみたいよ」
「よく調べたなあ」
「藤は、音読みでは『とう』でしょう。そして原は、源を意味しているそうなの。つまり藤原氏は、源が唐、唐の出身なんだって」
「あのよく分からなかった藤原氏の出自は唐だったのか。聞いてみればなるほどと思うけど、全然考えもしなかったなあ。朝鮮半島までは、考えたけど唐にまでは至らなかったよ」
「私も聞いた時は驚いたけど、なるほどと思えてくるのよね」
「そうなると、いろいろ謎だったことが分かってくるよ。中臣鎌足が亡くなる前に藤原氏となったとされているけど、中臣もよく分かっていないんだよ。そうなると、中臣とは中国の家臣だったということを意味しているのかもしれないよ
「なるほどね」
「そうか、出雲王朝は、藤原氏、つまりは唐に征服されたということか。白村江の戦いで倭国の兵は壊滅的な被害を受けるんだよ。その後に、戦勝国として唐の勢力が入ってきたということだ」
「占領されたということ?」
「さあ、どういった状況だったかなんて分からないが、結局は出雲の勢力が唐に駆逐されてしまった。そして、彼らは、荘園という形で土地を占有し、租庸調といった税制でこの列島の人たちから富を吸い上げていった。そういった制度は、みな唐の制度だよ。北方騎馬民族たる出雲王朝の影響下にあったこの列島を、唐の制度に変えてしまった。つまりは、中国化したということだよ」
「中国化?」
「第2の唐が作られたようなものかな。この列島は、唐の勢力による支配の下に置かれることになったということだ」
「それでね。さっきの玲子からのメールは、藤原氏からは、数多くの名前が枝分かれしていったらしいの。この列島は、中国から見ると左になるから佐藤。近くの近藤。東北など遠くの遠藤。加賀の加藤。伊賀の伊藤。このように、藤原氏に関係した名前がたくさん派生していったそうよ」
「藤のつく名前は、いっぱいあるよ。それが、みな藤原氏と関わりがあるとなると、日本全国津々浦々、藤原氏の関係者にあふれているということになるよ」
「ところが、そうでもないそうよ」
「ええっ、違うんだ」
「藤原氏とは、氏であって苗字ではないのよ。つまり氏姓制度では、藤原朝臣とか大伴宿祢とかいうでしょう。氏は、今で言う屋号のようなもので、姓はその地位を表しているのかな。『藤原会社の部長です』みたいなものだから、藤原の朝臣と『の』を入れるでしょう」
「源の頼朝と、『の』が入るよ」
「徳川家康は、『の』が入っていないから苗字なの。家康は公式の文書には源家康と書いていたそうよ。だから、氏姓制度で言えば源氏の系列になるみたいね」
「へえ、そうなんだ」
「氏は、系統とか系列を表すものであって苗字ではないから、今の藤原という姓の人が必ずしも藤原氏の末裔だとは言えないそうよ。特に、明治になってかなり自由に苗字を付けたということもあるしね」
「なるほどなあ」
「ただ、古くは、全国にあった藤原氏の荘園に関係する人たちが、藤のつく苗字を名乗ったというようなことだったみたい」
「では、何らかの関わりはあったということかな」
「古くはね」
「そうなると、出雲王朝が旧唐書にどう描かれているか気になるなあ。ちょっと眠いけど、頑張って調べてみるか」
恒之は、2階から資料を持ってきた。
「旧唐書は、以前も何度か見たが、出雲王朝がどう描かれているのかといった視点で見たことはないから、何か新しい発見があるかもしれないよ」
「そうだといいね」
唐は、618年に成立して907年に滅亡し、その後いくつかの国に分裂した。
それが『五代十国時代』とも呼ばれていて、旧唐書は、後晋の945年に完成している。
「倭国は古の倭奴国なりと冒頭に書かれているよ。倭奴国とは、北史では女王国を意味していたから、この旧唐書も倭国は出雲王朝系ではなく女王国の系列だと見なしているようだ。だが、倭国は、東西5月行、南北3月行とあり、そこには50余国あるが皆倭国の支配下だと書かれている。これは、隋書に出て来た倭(人偏に妥)国、つまり大国のことだよ」
「そうみたいね」
「その王は阿毎氏で、一大率を置いて諸国を検察していて、皆これを畏附しているとあるから、まったく出雲王朝のことだよ」
「官を設けるに12等有りと書かれているわ」
「これも隋書に出てきたよ、所謂官位12階と言われているものだろう」
恒之は、隋書の資料も横に置いた。
「歴史では、推古天皇の頃に聖徳太子が官位12階を定めたとあったわね」
「隋書に倭王が出てきただろう」
「姓が阿毎で、字が多利思北弧という王よね」
「この倭王が推古天皇だとされているんだよ」
「どうもそのようね」
「その倭王は、おおきみと呼ばれていて妻や太子がいたんだよ。女性の天皇だとされている推古天皇にどうして妻がいるんだ。有り得ない話だよ。そんな歴史が未だに正史とされているんだからあきれたものだよ」
「この倭国が唐に使者を送っているようね」
「631年に方物を献上しているようだ。ところが、唐の太宗皇帝は、道が遠いから朝貢しなくてよいと言い、使者を送ってそれを伝えようとしたとある」
「遠くて大変だからと遠慮しているみたいね」
「思いやっているように書かれているけど、さあどうだろう。彼らには、出雲王朝の素性は分かっているはずだから、あまり会いたくないということなのかもしれないよ」
「表向きの言葉だったのかしら」
「その使者は、王子と礼を争い朝命を宣べずして還るとあるから、つまり喧嘩別れしたということだ。やはり、隋だけでなく唐とも関係は良くなかったようだ」
「やはり、中国と出雲王朝とは犬猿の仲なのかしら」
「そうかもしれない。中国にしてみれば、やはり北方騎馬民族系の出雲王朝は、どちらかと言えば敵に近いのかもしれないよ」
「でも、また使者が行ったみたいよ」
「17年後の648年に行っているよ。新羅と一緒に行ったみたいだ。新羅も北方騎馬民族系だから、こちらとは仲が良かったのかもしれない」
「倭国だけだと行きにくいので、新羅に仲介を依頼したのかもね」
「そんなに行きにくいのなら行かなくてもいいのにとも思うけど、それだけの理由があったんだろう。日本国は倭国の別種なりとあるから、日本国誕生の報告に行ったということかな」
「そういうことなら少々行きにくくても行くわね」
「その国は、日にあるから日本という名前にしたとあるよ。これは、前にも話したよなあ。日が出雲にあったということだ。だから今にも日野や日南、日御埼などが残っている。日も夷も鄙もひなと読むし、熊野大社には、日本火之出初之社という別名も残されている」
「そうだったわね」
「倭という名前が良くないから日本にしたとか、日本は、もとは小国だったが倭国の地を併せたとも言っているよ。つまり、出雲に拠点をおいて西に東に国を平定していったという宋書にあったようなことだよ。ところが、この使者の言うことは信用できないと中国は疑ったとある。やはり新しい国になったなど言っても、所詮は出雲王朝が衣替えしたとしかみていないということかもしれない」
「中国も疑い深いのね」
「北方騎馬民族に対しては、相当な敵対心があったということなのかもしれないよ。だから、中国の言う倭国とは女王国であるところの倭奴国であり、日本は倭国とは別種だということは、日本は出雲王朝系つまりは北方騎馬民族系の国だということを意味しているんだろう」
「なるほどね。結局は、仲良くいかなかったということなのね」
「ところが、これも前に見たが、長安3年(703)に朝貢した朝臣真人は、賢くて容姿も華麗だと絶賛されて、則天武后にも最高の待遇を受けているんだよ」
「そうだったわね」
「そして、713年にその朝臣真人はまた行っている。その後、753年、804年、806年、839年に朝貢使を送っているよ」
「ということは、一時的に不仲になっていたけどその後は上手くいったということかしら」
「つまり、出雲王朝系ではなくなったからだよ」
「えっ?」
「出雲王朝が滅ぼされたか、あるいはたとえ存在していたとしても、国を代表するような立場ではなくなっていたということだよ。唐、すなわち中国系の国になったからこそ大歓迎を受けたということなんだろう」
「じゃあ、この頃に出雲王朝が滅んだの?」
「おそらく、そうだろう。この旧唐書に出て来る使者のうち、631年と648年は、まだ出雲王朝からの使者とみて間違いないよ。そして、648年に日本という国名に変えたという報告をしている。ということは、その頃に大改革をしているということだよ」
「そうなるかしら」
「648年頃にあった大改革と言えば何だったかな」
「その頃でいうと、645年の大化の改新よ」
「そう。つまり、大化とは大国を変えるということだよ」
「ええっ、大化は大国の改新を意味した年号だというの」
「隋書で倭(人偏に妥)王、つまり大国の王が、『大国維新の化』と言っていただろう。おそらくこういう会話がされていたということが都合悪くて、北史では削除されたのかもしれない。だから、大化は、出雲王朝の大国を改革したことを意味しているんだろう。そして、その一番の大きな改革は、おそらく日本という国名に変えたことなんだよ。つまり、日本は645年に誕生していたということではなかろうか。そして、648年に唐へ報告に行った」
「でも、本当にそうかしら」
恒之は、その頃の年表を出した。
「わが国の年号は、大化が初めてだ。ところが、大化が5年、その次の白雉が5年で、その後また年号が無くなっている。もし、王朝が継続していたら年号も続くはずだよ。ところが、10年ほどで年号は途絶えてしまった」
「どうなったのかしら」
「大化から10数年して、年号が続かなくなるほどの事態とは何だったかだよ」
「645年から10数年と言えば、朝鮮半島では百済が660年に滅亡するとか、その滅亡する百済の救済に倭国が兵を送って壊滅的な打撃を受けた663年の白村江の戦いよね」
「朝鮮半島の激動に、出雲王朝も無関係ではいられなかったんだろう。そして、この期に乗じて、唐は出雲王朝であるところの大国の打倒と列島の支配に乗り出したということだろう」
「大変な時代だったのね」
「ということは、中臣鎌足は白村江の戦いにおける戦勝国である唐からの司令官、つまりマッカーサーのような存在だったのかもしれない。アメリカの支配下にある今の日本と同じように、当時も唐からの支配が強められていったのだろう。そして、唐からやってきた勢力は、藤原氏としてこの列島での支配を確立していった。その唐の影響下で新政権が誕生したのが大宝元年かな。大宝律令など、唐の制度が定められた。こうして、親唐政権の樹立の報告に、703年、遣唐使が出かけたということだよ」
「そういうことだと、唐も歓迎するわね」
「出雲王朝の時代とは、その扱いに格段の差がある理由が、これで分かるだろう」
「それ以来、藤原氏という唐からの支配の下に置かれることになるのね」
「平安時代だなんていうけど、所詮、唐の勢力である藤原氏にとっての平安であって、庶民にとっては一部の人間に貢ぐだけの体制が作られていったに過ぎないよ」
「なんか今言われている格差社会も同じような状態に思えてくるわね。唐がアメリカになっただけで、この国では、庶民はいつの時代も貢がされているだけみたい」
「どんなに苦しめられても、抵抗や反対ができないように巧みに支配されているよ。少しでも反対すると抵抗勢力だと攻撃される。どんなつらいことに対しても従順であるのが美徳だということだよ」
「でも、しっかりとした考えを持っている人たちも決して少なくないと思うわ」
「それが、大勢を占めるようにならないと大変な時代がまたやってきそうだ」
「一人一人がよく考えないといけないわね」
「そうだよな」
「ところで、新唐書にはどう描かれているのかしら」
「新唐書も以前見たが、どう考えたら良いのか困ってしまったことがあるよ」
「そう。難解なのね」
「書いてあることは、全然難解ではないんだが、判断が難しいんだよ。その意味しているところを理解するのが大変なんだ」
そう言っていると、洵子が由美にいろいろと話し掛けてきたので、とりあえず、その日の古代史探索は終了となった。
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邪馬台国発見
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