<古墳>
『纒向(まきむく)遺跡』と卑弥呼
纒向遺跡とは、奈良県桜井市にある3〜4世紀のものと考えられている集落遺跡です。
その中の大型前方後円墳のうち、「箸墓古墳」が、卑弥呼の墓ではないかとも言われていて、邪馬台国近畿説にあっては、その根拠のひとつにもなっているようです。
その「纒向遺跡」や「箸墓古墳」が、「邪馬台国」とも「卑弥呼」とも全く関わりのない遺跡であることは、前項「箸墓古墳は、卑弥呼の墓なのですか?」でも、すでに述べていますが、ここでは、また別の角度から、それらを検証してみたいと思います。
まず、奈良、あるいは紀伊半島が、どういった位置にあり、その地が、当時、どういった役割を持っていたのかということです。
その地名は、「紀の国」で、元は「木の国」、つまり、木が重要な役割を果たしていました。
紀伊半島は、温暖・多雨で樹木の生育には極めて適した地域です。そこで伐採された木が、紀ノ川、つまり木の川を下り運び出されていたのでしょう。今も、紀ノ川の河口には、巨大な貯木場があります。
この紀伊半島に注目した勢力がありました。
それが、スサノオ尊をはじめとする出雲王朝の勢力でした。
彼らは、北方遊牧民族で、鉄を必須としていました。馬の蹄鉄や各種道具や武器などに鉄は欠かせません。
つまり、『たたら製鉄』です。そのたたら製鉄の工法では、鉄1トンを生産するのに、木材を60トンも必要とします。その炉で、3〜4日ほど火を燃やし続けます。
銅よりも溶解温度が高く、加工する時も、木あるいは炭を多く必要とします。
スサノオ尊は、今で言う山陰・山陽に拠点を持ち、紀伊半島をたたら製鉄に必須な木材の供給地として位置づけ、紀伊半島は、彼らにとってはきわめて重要な役割を果たしていたと考えられます。ですから、スサノオ尊は、息子の大歳・ヒギハヤヒを紀伊半島に派遣しています。そのニギハヤヒは、彼らの祖先や父スサノオ尊を守護神として熊野3社に奉っており、ニギハヤヒ自身は三輪山で奉られています。
つまり、3世紀頃から、出雲王朝が唐王朝に滅ぼされる7世紀中ごろまで、紀伊半島には、ニギハヤヒを始めとする出雲王朝の勢力が、拠点を構えていましたから、その奈良の地からそういった時代の遺跡が発掘されるのは、当然のことでもあります。
しかし、それが、邪馬台国があったとか卑弥呼がその地にいたといったことにつながるはずもなく、全く別の話であります。
発掘調査に関わり、建物の復元模型を作製された神戸大学大学院工学研究科の黒田龍二准教授は、「正面柱間が偶数間であるのは出雲大社本殿に似ている」と述べています。
出雲の勢力と紀伊半島の勢力の関係は、記紀認識にあっては消されています。
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