<大化改新>
「蘇我氏とは?」
蘇我氏は、馬子、蝦夷、入鹿の3代にわたって権勢を誇り、天皇家をもないがしろにする振る舞いや専横ぶりが伝えられているとされています。そして、その蘇我氏を滅ぼしたのが中大兄皇子や中臣鎌足による「乙巳の変」なるクーデターだとされています。
しかし、そもそも蘇我氏なる勢力が、何者なのかは不明です。また、645年当時、我が国に天皇なるシステムはまだ存在していません。天皇という名称すらこの世にはまだ生まれていません。660年、唐王朝第3代皇帝李治の皇后武則天が、道教の理念を基にして命名し、皇帝を天皇と改称しました。しかし、武則天が失脚するとまた皇帝に戻されています。そして、武則天の勢力によってこの列島が占領征服されているので、この列島には、天皇や武氏(士)、仏教など、武則天の影響が色濃く残されています。さらに、武則「天」の幼名・本名は、武「照」です。つまり、我が国の最強の神であり、伊勢神宮に祀られている「天照」は、武則天を意味しています。ですから、伊勢神宮の神紋は、花菱で、別名「唐花」とも呼ばれています。
つまり、存在してもいない天皇をないがしろにしたという蘇我氏を滅ぼし、天皇主権国家が造られたことになります。当時、蘇我氏は、甘樫の丘に武器庫もある要塞を築き、天皇家を見下ろすほどに権勢を誇っていたと日本書紀にはあります。しかし、そんな要塞なるものを築くほどのスペースは甘樫の丘にはありません。また、仮にあったとしても、それだけの建築物を維持するには相当の基礎工事がされなければ倒壊してしまいます。現地には、そんな痕跡などどこにもありません。
また、天皇以上に権勢を誇っていたというこの列島の最高権力者が蘇我氏であったとしましょう。その蘇我氏が3代にわたって「馬子、蝦夷、入鹿」といった獣や蔑称を意味するような名前を付けるなど有り得ません。
そこには、大陸の王朝がこの列島を蔑視していた視点が極めて明瞭に現れていると言えます。つまり、645年当時、天皇も蘇我氏なる者も存在していなかったのです。663年秋、この列島を占領・征服した唐王朝の勢力によって、彼らにとって都合良く歴史が作り替えられたということになります。征服したのではないとするために、架空の悪者蘇我氏をでっち上げ、その悪者を成敗した正義の勢力だと自らを美化したのでしょう。
ですから、奈良で何らかの遺跡が発掘されると、ことさら蘇我氏に関係する施設だと思わせようとします。
紀伊半島は、紀ノ国、つまり木の国とも言われるように、木材供給の大きな拠点でした。出雲王朝の勢力は、たたら製鉄を基本産業としており、その製鉄法では、3日3晩火を燃やし続けます。ですから、その加工も含め、木や炭が膨大に必要となります。雨が多く温暖という木の成育に最も適した紀伊半島に、スサノオ尊は、息子のニギハヤヒを送り込みました。そのニギハヤヒは、熊野本宮大社や那智大社などに守護神として父や祖先を祀りました。
奈良の地に多くの古墳や遺跡が存在するのは、これらの出雲王朝に関連する拠点の痕跡であって、蘇我氏などとは関係ありません。
唐王朝の勢力は、そこに出雲王朝の勢力が存在してたことが遺跡から分かっては都合が悪いので、蘇我氏なるものを創作し、その蘇我氏の遺跡だとしたわけです。
また、ニギハヤヒは、奈良盆地を見渡せる三輪山で、そのエリアで最強の神、大物主命として祀られています。
そして、高松塚古墳などで唐風の埋葬がされているのは、唐からやって来ていた征服者がいたことの証明でもあります。
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