<津軽弁と出雲弁>
「津軽弁と出雲弁は、どうして似ているのでしょうか?」
津軽弁のルーツは出雲弁にあります。そのどちらも、いわゆるズーズー弁というイントネーションが共通しています。では、遠く隔てられた出雲と津軽にどういった関係があったのでしょう。
それを検証しようとしますと、我が国の秘められた成り立ちの歴史を紐解かなければ理解し得ません。
7世紀中頃まで、この列島の都が出雲の地にありました。(当時はヤマトと呼ばれていました)
その都、出雲の地が西暦663年11月18日(旧暦10月10日)、唐王朝によって占領・征服されました。その詳細は、資治通鑑に残されています。その時に惨殺された大国主命や多くの人々を今も出雲では毎年弔っています。それが、旧暦の10月10日から始まる神在祭です。
津軽弁と出雲弁との共通性は、ここに起因します。つまり、唐王朝に侵略された時に、出雲王朝の人々が遠く津軽にまで逃げ延びたのです。津軽を、古くは「東日流」と書いていました。それは、東に「日」が流れていったことを伝え残しています。
隋書に「天をもって兄となし、日をもって弟となす」と、当時のこの列島から行った使者がこの列島の支配体制について述べています。つまり、「天」がこの列島の国家的象徴で、「日」が実質的支配者という意味です。今の天皇と総理大臣のような関係です。
そして、その実質的支配者のいた「日」の地が今の東出雲です。その南には、今も「日南」とか「日野」という地名が残っています。その「日」の地の大本だという意味で、スサノオ尊を祀る熊野大社の地は「日本(ひのもと)」と呼ばれ、その熊野大社には「日本日之出初之社(ひのもとひのでぞめのやしろ)」という別名が残されています。この由緒ある「日本(ひのもと)」が、我が国の国名とされたのが645年です。重要な年なので「大化」という年号とされました。当時、出雲の国は「大国」と自称していました。つまり、「大」国を日本と「化」えたという意味で「大化」です。
ところが、唐王朝は、この出雲王朝を征服し、歴史からまで抹殺してしまいました。
出雲王朝の人々は、本当に苦痛の思いで一杯だったことでしょう。
その出雲王朝の人々が津軽に逃避した痕跡は、ズーズー弁のみならず、東北地方で発見された「日本中央」という石碑にも残されてもいます。自分たちこそ「日本(ひのもと)」なんだと。また、東北で馬が飼われていたのも、騎馬民族たる出雲の勢力が東北に逃れたことに起因するのかもしれません。
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