<聖徳太子>
「聖徳太子は存在していなかったのですか?」
聖徳太子は、お札にその肖像画が使われたりして、多くの人々に実在していたと思われていました。その肖像画も、法隆寺で見つかったとされていますが、決して聖徳太子の像だなどとはどこにも記載されていませんし、そこに描かれている人物が聖徳太子だなどという根拠はどこにもありません。おそらく、そうなんだろうというだけのことです。そして、お札に使用することで、さも実在していたかのように思わせようとしたのでしょう。
最近になってようやくその存在が疑問視されるようになってきました。
聖徳太子、あるいはその当時の推古天皇も架空の人物でしかありません。それは、大陸に残されている歴史と突き合わせればすぐに理解できます。
たとえば、我が国の歴史にあっては、聖徳太子が冠位十二階を導入したとされています。しかし、それは、のちの時代に捏造された歴史です。
隋書に当時のこの列島の大王が紹介されているのですが、その大王が推古天皇だとされています。推古天皇は女性ですが、その大王には妻があると紹介されています。有り得ません。
また、その開皇20年(西暦600年)に隋に朝貢した使者は、この列島の国家体制について報告しています。『徳、仁、義、禮、智、信』、それぞれに大小があるので、12階ということになります。ところが、わが国の歴史にあっては、聖徳太子が、603年に『冠位12階』を導入したとしています。そんなことは、あり得ないことです。
では、一体、当時の天皇や聖徳太子といった歴史は何だったんでしょう。そういった天皇制に関わる歴史について考える場合、この列島の支配勢力の本性が解明されないとその本質は理解し得ません。そして、それを突き詰めていきますと、この列島の都があった「出雲(当時はヤマトと呼ばれていました)」の地が、西暦663年11月18日(旧暦10月10日)、唐王朝によって占領・征服されていたところに行き着きます。もちろん、この列島全域もその支配下に置かれました。その詳細は、資治通鑑に残されています。そして、それを認識できるかどうかが、我が国の古代史の謎が解けるかどうかの試金石だとも言えます。
唐王朝第3代皇帝李治の皇后武則天の時にこの列島が征服されているので、今もこの列島には武則天の影響が色濃く残されています。天皇もそのひとつです。武則天は、道教の理念から皇帝を天皇という呼称に変えました。しかし、武則天の失脚後はふたたび皇帝に戻されています。ですから、中国皇帝制度の中で、天皇を名乗ったのは、武則天の夫李治のみです。つまり、この列島に天皇制が誕生したのは、唐王朝の支配がこの列島で確立した大宝律令以後です。
さらに、彼らは、自らに都合良く歴史を作り替え、この列島を占領・征服したことも、天皇や武士が何物なのかも秘匿してしまいました。それが、記紀認識です。今をもって、この列島の人々は、その記紀認識で騙され続けているというのが、我が国の悲しい実態です。
したがって、663年以前は、出雲王朝の時代であり、天皇制など存在していませんでした。同時に、聖徳太子といった歴史も、この列島を征服した唐王朝の勢力によって創作されたものだったのです。
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実は、その聖徳太子は、武則天の孫の懿徳太子がモデルだということも言われているようです。ご参考までにご紹介いたします。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1039028775
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