今昔なぜなぜ?      Q & A

<政権交代>

「そもそも政権交代とは何だったんですか?」

 09年の夏の総選挙で、戦後わが国の政治を支配してきた自民党が、歴史的敗北を喫し、野党という地位に降りました。一時、細川内閣の時にも下野したことがありましたが、その時は比較第1党で、その10ヵ月後にはまた与党に戻っています。
 ところが、09年の時は、そういった比ではありませんでした。自民党政治そのものに『ノー』の審判が下されたのです。
 『自公政権よ、いいかげんにしろ!』
 その国民の怒りが、『政権交代』という激動と言ってもいい程の変化につながりました。
 では、その『政権交代』は、何を意味していたのでしょうか。細川内閣の時は、前政権とその基本は変わらないということを述べていたように、自民党政治を変えるという立場にはありませんでした。しかし、09年の時はあまりの自公政治への国民の批判が強いため、民主党は、『国民を苦しめている古い仕組みを終わらせ』ようと、自公政治を変えることを前面に打ち出したのが、細川政権の時との大きな違いでした。
 ところが、その後の推移は、自公政権も民主党政権も何ら変わりはなかった状況にあります。
 むしろ、自公政権以上に庶民の暮らしは大変な状況に陥っています。
 実は、わが国の歴史にあっては、そういった『政権交代』を繰り返しながら今日に至っています。
 663年に、この列島は唐王朝に占領・征服され、当時の出雲王朝は歴史からも抹殺されてしまいました。
 それ以後、唐王朝の勢力は藤原氏を構成し、この列島の中枢に位置して、この列島の人々を隷属下に置いてきました。
 その唐王朝・藤原氏の補完勢力が、武士でした。
 唐王朝は李氏で、第3代皇帝李治の皇后は武則天でした。その武則天の時代に、この列島が征服されています。つまり、李氏が宗家であり、武氏は外戚で、補完勢力に過ぎません。この列島においてもその基本は変わりません。唐王朝・藤原氏を補完するのが武氏、つまり武士ということなのです。その唐王朝・藤原氏の象徴・シンボルが、武則天の命名による天皇です。ですから、武士である平家は、この列島の人々を『平定』し、藤原氏・天皇を守ることがその基本的使命でした。その平家から源氏に移行したのも、『政権交代』と言えます。その後、北条氏や徳川家などにその政権が移りますが、所詮は、武士の中での権力抗争であって、『唐王朝・藤原氏・天皇を補完する武士』という関係になんら変わりはありませんでした。
 また、『明治維新』と言われていますが、これもその『政権交代』でしかありません。明治政府も、天皇を中心としています。その中心となる政党は、天皇を守護することを基本にしています。そして、何よりも明治政府は、伊藤博文を先頭に、唐王朝再興のために大陸侵略へ邁進していきます。
 その基本的な支配体制は、戦後も同じです。再び針路を大陸侵略にとり、そこへ向けて突き進んでいます。
 このように、663年以降、わが国の基本的支配体制に何ら変動はありません。
 唐王朝・藤原氏・天皇を中心とし、それを守護する勢力が『政権交代』を繰り返しながら今に至っているのです。すなわち、国民の不満や批判をかわし、『明治維新』のごとく、さも新しい時代になったかのように国民を騙し、その支配体制を維持してきているのです。
 これは、唐王朝の時代から続く彼らの手法なのです。
 隋の煬帝が、高句麗遠征のために、江南と結ぶ運河に庶民を動員して大きな不満の声が渦巻きます。さらに、その高句麗遠征に3度も試み、失敗します。それにより、首都大興城は大混乱に陥ります。その時、李淵は、煬帝を太上皇帝に奉り上げ、傀儡の皇帝を立て、煬帝が殺害されると、その傀儡の皇帝から禅譲を受けて皇帝に即位しました。ここに唐王朝が、建国されました。とは、言うものの、隋も唐も同じ鮮卑族で、その貴族政治に変わりはありません。
 すなわち、『政権交代』だったのです。単なる担い手が代わったというだけで、その基本的な性格に何ら変わりはありませんでした。
 その鮮卑族による隋・唐王朝でしたが、907年に唐王朝が滅ぼされた時には、その鮮卑族である貴族は、大陸から追放されてしまいました。その唐王朝貴族が大陸を逃れてこの列島にやってきているので、東大寺正倉院には、彼らの収集した『宝物』が今に至るまで保管されているのです。その正倉院の近くにある聖語蔵には、隋・唐代の経巻が、5千巻も残されています。
 唐王朝が滅ぼされる時も、寝返り戦術などで延命を図ろうと画策しましたが、徹底した掃討作戦に遭い、命からがらこの列島に流れ着くしかありませんでした。しかし、彼らは、決してこの列島にいつまでも居着いているつもりなど毛頭ありません。 いつしか、必ず大陸に戻り、唐王朝再興を目指すことにしました。それが、『明治維新』以降の、大陸侵略の本質でした。そんな時代錯誤もはなはだしい侵略行為が、世界の民主主義勢力によって破綻させられたのは当然でした。
 ところが、彼らは、自らの本性も思惑も国民に『ばれていない』のをいいことに、今再び、大陸に向けて侵略しようとしているのです。
 当時、麻生前総理が、会談で鳩山氏に、『針路を間違えるな』と釘を刺しました。つまり、麻生前総理が、大陸侵略へ向けて、着々とその準備を進めてきていたのだから、その後を引き継いで『針路を間違えるな』と、その思惑を鳩山氏に引き継いでいます。この『針路を間違えるな』という言葉に込められた、その意図を理解し合えるのは、唐王朝・藤原氏の勢力であればこそです。
 ただ、国民の立場からすれば、『針路』を間違っているのは麻生自公政権だったのですが、彼らにしてみれば、基本戦略に沿って間違うことなく大陸侵略に向けて突き進んでいたということなのでしょう。
 麻生前総理は吉田茂元総理の孫、鳩山氏は自民党初代総裁鳩山一郎氏の孫にあたります。つまり、過去、千年以上も前から続く彼らの伝統的手法である延命策が『政権交代』でした。自公政権は危機に陥り崩壊しましたが、唐王朝・藤原氏・天皇を中心とし、この列島の人々がその支配下に置かれる体制の延命策『政権交代』で、その体制を維持しようとしているのです。
 新政権は、国民の大きな批判をかわす為の諸策を講じるでしょうが、所詮は『ガス抜き』でしかありません。支配勢力にとっては、窮地をしのぐためのリリーフピッチャーに過ぎません。基本的には、前政権が出来なかったことややり残したことを、引き継ぐわけですから、国民にとっては良くなるどころか、さらに悪化するということになります。大陸侵略へ向けて、彼らの最大の障害となっている憲法9条を抹殺し、戦費調達のために消費税を増税し、基地強化も進められ、庶民を戦争に利用するための教育も徹底されていきます。
 そういった明治体制への回帰も、維新だなどと、さも新しい改革のごとくに進められます。それが、マスコミを総動員して徹底されていきますから、多くの国民はそれが改革だと思わされてしまいます。
 ですから、鮮卑族による1300年続く支配体制に変化が生じることは無いでしょう。なぜなら、唐王朝が崩壊した時のように、今のわが国の支配体制に対する批判まで、ほとんどの国民は考えてもいません。武士に対する批判はあっても、その支配体制への批判までいかなかったように、その『政権交代』も明治維新同様、その『手下』が入れ替わるだけで、本当に支配している勢力やその体制にまで批判が行くことはないでしょう。
 それは、わが国の一番の中枢を支配している勢力の本質が、煙幕で隠されているからです。その煙幕こそが、記紀認識です。この列島が唐王朝に征服され、それ以来この列島は鮮卑族・唐王朝・藤原氏に支配されてきていることを隠し続けられる限り、彼らの支配は安泰でしょう。
 それは、逆に、いつまでもこの列島の人々は、偽りの歴史認識で騙され続けることを意味します。同時に、彼らの隷属下に置かれ続けることをも意味しています。
 一人でも多くの方々が、一日でも早く、この列島の真実の歴史に気づいて欲しいと願うばかりです。

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