今昔なぜなぜ?      Q & A

<明治維新>

「明治維新とは何だったんですか?」

 明治維新以後、我が国の支配勢力は、富国強兵などと言って、あるいは様々な経済的理由を口実に我が国の人々を大陸侵略へと誘導していきました。そして、日清・日露戦争を経て、その後、関東軍は柳条湖事件・蘆溝橋事件といった謀略を仕掛け、大陸制覇へ邁進していきました。これらの大陸侵略によって、2000万人とも言われる人々が殺害され、筆舌しがたいような被害を大陸の人々に与えてしまいました。また、我が国の600万人とも言われる人々がその犠牲にもなりました。この一連の大陸へ向けて侵略していった、その動機は何だったのかは、我が国の支配勢力の本性が解明できなければ理解し得ません。
 それは、西暦663年11月18日(旧暦10月10日)、唐王朝によって、この列島の都があった「出雲(当時はヤマトと呼ばれていました)」の地が、占領・征服されていたところに行き着きます。もちろん、この列島全域もその支配下に置かれました。その詳細は、資治通鑑に残されています。唐王朝第3代皇帝李治の皇后武則天の時にこの列島が征服されているので、今もこの列島には武則天の影響が色濃く残されています。天皇もそのひとつです。武則天は、道教の理念から皇帝を天皇という呼称に変えました。しかし、武則天の失脚後はふたたび皇帝に戻されています。ですから、中国皇帝制度の中で、天皇を名乗ったのは、武則天の夫李治のみです。つまり、この列島に天皇制が誕生したのは、唐王朝の支配がこの列島で確立した大宝律令以後です。
 その唐王朝も907年朱全忠に滅ぼされこの列島に流れ着きます。その時に持ち込んだ宝物が今も東大寺正倉院で保管されています。そして、彼らは、再び大陸を支配下にしようと、秀吉の時代、あるいは明治維新以降大陸へ侵略していきました。「唐王朝再興」それこそが、彼らの存在意義です。そのことは、古事記で因幡の白兎のお話として残されています。『この列島の人々を騙して再び大陸の支配者として舞い戻れ。しかし、決してそのことは口にするな』というのがそこに秘められたメッセージです。ですから、彼らは、天皇制や武士が何者なのかも、自らの本性も思惑も一切口にしません。また、唐王朝がこの列島を占領・征服したことも、再び大陸を支配下にしようなどと思っていることも秘匿したまま、彼らにとって都合の悪い歴史や理念や勢力を、口汚く罵り抹殺しようとします。今の執拗な憲法改定の動きも、君が代の強制もその動機に基づくものです。そして、彼らにとって都合の良い歴史だけを残そうとします。
 このように、天皇とは、我が国の中枢を支配する唐王朝の勢力のシンボルであり、この列島を征服したのが、武則天の勢力でしたから、その後の支配勢力は、武氏、つまり武士です。このことは、万葉集にも伝え残されています。つまり、天皇の勢力の手下が武士というわけです。平家・源氏・徳川、明治政府などなど手下が変わっても基本的な我が国の支配体制に変わりはありません。野球で言えば、監督が同じでリリーフピッチャーが次々と変わるようなものです。今で言う政権交代です。
 つまり、明治維新とは、何か新しくなったと思わせて、国民を大陸侵略へ誘導しようとするものでした。ですから、2大政党制、政権交代、維新、大連立などと言って何か新しいことのように思わせても、国民が唐王朝の勢力に支配されていることに何ら変わりはありません。今も維新などと言われることがありますが、維新とは、「新」しい装いで支配体制を「維」持しようとするものですから、別に庶民にとって何かいいことが起きるわけではありません。むしろ、庶民の立場からすれば、新たな苦痛が押し付けられるだけのことです。

http://kodai21-s.sakura.ne.jp/to-m.html


邪馬台国       古代史

邪馬台国発見

ブログ「邪馬台国は出雲に存在していた」

国産ローヤルゼリー≪山陰ローヤルゼリーセンター≫

Copyright (C) 2011 みんなで古代史を考える会 All Rights Reserved.