今昔なぜなぜ?      Q & A

<神社>

「どうして神無月には全国の神々が出雲に集まるのですか?」

 「どうして数多くの神社が残されているのですか」で検証したように、東胡の支配を打ち破ったスサノオ尊をはじめとする出雲の勢力は、この列島の人々から神として崇められ、全国津々浦々の神社で祀られました。
 また、スサノオ尊は、2世紀末、卑弥呼を象徴とする九州の勢力と統一国家を築きました。その時、卑弥呼の国は「一国」、スサノオ尊の国は「大国」とされました。それは、「一」と「大」で「天」という文字になるからです。つまり、その両者によってこの世界が構成されているという概念によるものです。そして、それは、上に位置する「一」であるところの卑弥呼が国家的象徴で、下に位置する「大」であるところのスサノオ尊が実質的支配者として支えるという関係でもありました。これは、今で言えば天皇と総理大臣という関係にも通じています。その統一国家の象徴が「天」で、全国津々浦々の神社で祀られ、神社の前にある鳥居はその「天」を象ったものです。
 そして、それからおよそ400年を経て、分裂していた中国が589年、隋によって統一され、600年にはこの列島から初対面の挨拶といった使者が送られます。その使者が、この列島の国家形態を報告したのが「天をもって兄となし、日をもって弟となす」というものです。つまり、「天」が国家的象徴で、「日」が実質的支配者という意味です。スサノオ尊の残した体制が、およそ400年後も引き継がれていました。その「日」の地があったのが、今の東出雲です。スサノオ尊が祀られる熊野大社の地は、その一番の聖地・大元にあたるということで「日本(ひのもと)」と呼ばれていました。熊野大社には、今にも「日本火之出初之社(ひのもとひのでぞめのやしろ)」という別名が残されています。その近くには、日野とか日南といった地名が今も残っています。
 また、この列島は、大陸の王朝から、「倭国」などと呼ばれ属国扱いされていました。それに対して、出雲王朝は、「日出る国の天子、日没する国の天子に・・・」という国書を送ったのですが、それは、属国扱いするなという意味が込められたものです。隋の煬帝に対し、貴方が天子なら私も天子だと毅然とした態度を貫いています。しかし、煬帝は、この世界の中心にいる皇帝・天子は、自分だけだと考えていますから、南海の孤島に暮らす「倭人」が天子とはどういうことだと、その国書によって、隋との国交は断絶します。しかし、隋もすぐに唐に替わりますが、唐も同様に、「倭国」と呼び、属国扱いします。
 そこで、出雲王朝は、645年、国名をスサノオ尊に由来する最も由緒ある「日本(ひのもと)」と改め、そのことを唐に伝えます。「大国」を「日本」という国名に「化」えるという大きな改革をした年だという意味で「大化」という年号が付けられました。
 ところが、その出雲にあった都は、西暦663年11月18日(旧暦10月10日)、唐王朝によって侵略・征服されます。もちろん、列島全域もその支配下に置かれます。その時に今で言う総理大臣である大国主命をはじめ多くの家臣が稲佐の浜で惨殺されます。
 その弔いが、旧暦10月10日の神迎祭に始まり、翌日から執り行われる神在祭です。今なら、簡単に行けますが、当時は、その行き帰りも含めますと、およそ1箇月ほど全国各地の神官が不在となります。それにより、全国では神無月で、出雲では神有月という訳です。
 そして、この列島を征服し、その後、天皇をシンボルとして植民地下に置いた唐王朝の勢力は、唐(藤)を源(原)とするという意味で藤原氏を構成し、自らが征服したことも、出雲に都があったことも、出雲に「日本」があったことも消し去り、自らに都合良く歴史を作り替えました。それが、新唐書や記紀認識に残されているものです。記紀は、この列島における彼らのための「歴史改ざんマニュアル」といったところでしょうか。


      

邪馬台国発見

ブログ「邪馬台国は出雲に存在していた」

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