<大和>
「大和、ヤマトとは?」
我が国の古代史にあっては、奈良の地が古代の都である「大和国」だとされています。では、「大和」と書いてどうして「ヤマト」と読むのでしょうか。「大」は『だい』ですし、「和」は『わ』とか『かず』としか読めません。各地の地名には、そういった当て字の地名が数多くありますが、どうして「大和」が「ヤマト」なのでしょう。そして、「大和」や「ヤマト」とは何を意味しているのでしょうか。 そういったことを解明しようとしますと、我が国の秘められた成り立ちの歴史を紐解かなければ理解できません。 まずこの列島の強力な支配勢力として、いわゆる魏志倭人伝に「大倭」が登場します。一方、この列島の都が「後漢書」に「邪馬臺国」と記されました。ここで「ヤマト」が登場しています。 では、「大倭」とは、どういうことを意味しているのでしょう。その前にこの列島のことを、大陸の王朝は「倭国」、あるいはそこに暮らす人たちを「倭人」と言って蔑視していました。そして、出雲王朝の国名は、「大国」と自称していました。その大国の今で言う総理大臣が「大国主命」と呼ばれていました。つまり、「大倭」とは、倭国の中での大国の勢力という意味を持った蔑称です。 そして、「ヤマト」とは、その大国の都の地を意味しています。「邪馬臺国」の「臺」とは、皇帝の居する場所を意味する文字です。つまり、都ということになります。今は、常用漢字で「臺」の文字が使われていないので、「台」が代用されています。つまり、この「邪馬臺国」が「邪馬台国」というわけです。それが、出雲の地にあったのです。 ところが、その都も、西暦663年11月18日(旧暦10月10日)、唐王朝によって占領・征服されてしまいました。唐王朝の勢力は、出雲の地に大国、つまり大倭があったことも都ヤマトがあったことも消し去り、今の奈良に大倭もヤマトも遠い太古の時代からあったと歴史を作り替えてしまいました。だから、大倭もヤマトも奈良の地にあったことにしたので、大倭と書いてヤマトと読ませることになりました。 ところが、その唐王朝の勢力も、大陸からこの列島にやってきますと、それまでは、大陸からこの列島を散々蔑視していたのですが、その自らが蔑視していたこの列島に身を置くことになります。そうなりますと、自らが自らを蔑称で呼ぶことになります。それは、彼らには耐えられるはずもありません。ですから、その後は、倭が和と表現されるようになりました。大倭は大和に、倭歌は和歌に、倭服は和服にと、その「倭」という蔑称が「和」に書き換えられました。それは、散々蔑視してきた唐王朝の勢力がこの列島にやってきて、自らの都合で「和」に替えたことによるものです。 そのことは、万葉集を見ても分かります。万葉集には「ヤマト」が60首ほどの中に登場しているのですが、原文で「大和」と書いて「やまと」と読ませる歌は1首たりともありません。万葉集後の時代に「大和」と書くことになったことが裏付けられています。 712年に「好字令」が出されたことで、地名は漢字2字で表記せよとなりました。これによって、全国各地に、その地に住む人でなければ読むことのできない地名が無数に誕生してしまいました。ですから、「大和」の表記は、それ以降だということは考えられます。 つまり、「ヤマト」とは、今で言う出雲の地にあったこの列島の都を意味していました。同時に、それが「邪馬台国」だったのです。
http://kodai21-s.sakura.ne.jp/ma.html
|