<武士>
「武士とは何者なんですか?」
武士が何者なのかについて検証しようとしますと、我が国の秘められた成り立ちの歴史が解明されなければ理解し得ません。そして、それは、西暦663年11月18日(旧暦10月10日)、唐王朝によって、この列島の都があった「出雲(当時はヤマトと呼ばれていました)」の地が、占領・征服されていたところに行き着きます。もちろん、この列島全域もその支配下に置かれました。その詳細は、資治通鑑に残されています。唐王朝第3代皇帝李治の皇后武則天の時にこの列島が征服されているので、今もこの列島には武則天の影響が色濃く残されています。天皇もそのひとつです。武則天は、道教の理念から皇帝を天皇という呼称に変えました。しかし、武則天の失脚後はふたたび皇帝に戻されています。ですから、中国皇帝制度の中で、天皇を名乗ったのは、武則天の夫李治のみです。つまり、この列島に天皇制が誕生したのは、唐王朝の支配がこの列島で確立した大宝律令以後です。
その唐王朝も907年朱全忠に滅ぼされこの列島に流れ着きます。その時に持ち込んだ宝物が今も東大寺正倉院で保管されています。
そういったことが、我が国の歴史にあっては、アレンジして残されています。古事記では、出雲王朝の征服を指令したのが、天照ですが、武則「天」の幼名・本名は、武「照」と言います。ですから、天皇は天照の子孫とされています。すなわち天照の正体とは、武則天を意味していたのです。その天照は、我が国の最強の神として、今も伊勢神宮で祀られています。それを象徴するように、伊勢神宮の神紋は、花菱、別名唐花とも呼ばれています。
その武則天は、自らが即位すると「聖神皇帝」と名乗りました。「武」則天が、聖「神」皇帝ということで、初代天皇は、神武天皇です。つまり、天皇の祖先が天照だとか、初代天皇が神武天皇というのは、我が国の支配勢力のルーツは、武則天にあるということを伝えていたのです。この列島は、武則天の勢力によって制圧され、その後も支配されているので、その勢力は、武氏、すなわち武士です。
武則天たる天照が、出雲の征服を命じたのは、武甕槌命、すなわち武氏であり、今に至るまで春日大社の祭神として祀られています。実在の人物としては、当時の唐王朝の武将、劉仁軌が、朝鮮半島とこの列島を支配し、戦後処理まで行なっています。
言ってみればマッカーサー的な役割も果たしています。この劉仁軌こそが武甕槌命に相当すると考えられます。
そして、大陸を追放されこの列島に流れてきた唐王朝の残党は、再び大陸を支配下にしようと、秀吉の時代、あるいは明治維新以降大陸へ侵略していきました。「唐王朝再興」それこそが、彼らの存在意義です。そのことは、古事記で因幡の白兎のお話として残されています。『この列島の人々を騙して再び大陸の支配者として舞い戻れ。しかし、決してそのことは口にするな』というのがそこに秘められたメッセージです。ですから、彼らは、天皇や武士が何者なのかも、自らの本性も思惑も一切口にしません。
このように、天皇とは、我が国の中枢を支配する唐王朝の勢力のシンボルであり、この列島を征服したのが、武則天の勢力でしたから、その後の支配勢力は、武氏、つまり武士です。このことは、万葉集にも伝え残されています。つまり、天皇の勢力の手下であり補完勢力が武士というわけです。平家・源氏・徳川、明治政府などなど手下が変わっても基本的な我が国の支配体制に変わりはありません。野球で言えば、監督が同じでリリーフピッチャーが次々と変わるようなものです。今で言う政権交代です。
武士とは呼びませんが、それと同様の役割を持つ勢力は、今も姿形を変えて存在しています。
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