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由美と行く 
万葉紀行

33、

 「よく降るわね」
 「梅雨の真っ最中だからなあ」
 「早く明けてくれるといいのにね」
 「そうなると、また暑くて大変だよ」
 「まあ、そうだけど。むしむしと暑いよりも、からっとしてくれた方がいいわ」
 恒之と洵子が夕方の梅雨空を眺めていると、外を今年産まれたばかりの子猫が三匹、母猫について歩いているのが見えた。
 「そうだ。由美にメールを送らないと」
 「どうしたの?」
 「子猫が産まれて、すぐに一匹亡くなっただろう。だから、気になるらしくて、時々様子を聞いて来るんだよ」
 「じゃあ、デジカメで撮影して送ってあげたらどうかしら」
 「そうだなあ。では、そうするか」
 恒之は、庭の石の側で母猫の尻尾にじゃれつく子猫の映像を撮り、容量を縮小して由美の携帯電話に送信した。
 しばらくして返信メールがきた。
 【元気そうなので安心しました。ところで、この前、玲子と鹿島神宮や香取神宮について調べていたら、神紋が紀州の熊野三社と似ているんですが、どういうことなんでしょう。祭神は藤原氏に関わる神のようですが】
 『鹿島神宮と香取神宮の神紋?』
 恒之は、すぐにインターネットで検索した。
 鹿島神宮の神紋は、三巴だった。
 『三巴?』
 三巴とは、三つの雲が渦を巻くような神紋で、美保神社にもあった。
 恒之には、それが三つの魂、つまり出雲を象徴する三祖神であり、熊野大社の上の宮に奉られていたと言われている伊耶那岐命、伊耶那美命、そして事解男命を意味するように思えた。
 次に、香取神宮を調べた。
 そこには、五七の桐の紋があった。
 『ええっ!』
 三巴と五七の桐の紋となると、恒之には思い当たるところがあった。
 由美も言っていたが、恒之は紀州熊野三社を検索し、熊野速玉大社のサイトを開いた。
 『やはり、そうだった』
 その神紋は、三巴と五七の桐だった。
 そして、同様に熊野那智大社も三巴で、熊野本宮大社は、三巴に八咫烏だった。
 『ということは、鹿島神宮と香取神宮は、元は出雲の神を奉っていたのかもしれない』
 熊野三社と言えばニギハヤヒの建立で始まっており、恒之は、そのニギハヤヒが奉られる三輪山の麓にある大神神社を検索した。
 『ええっ、ここも同じだよ』
 大神神社にも三巴と五七の桐の神紋があった。一方、藤原氏の神社と言えば、藤原不比等が建立したと言われる春日大社である。
 そこには、下がり藤の神紋があった。
 藤原氏だけに藤が使われていた。
 先に見た宋書では、倭国つまり出雲の勢力範囲は、東の端が海に出るとあった。
 それを物語るように、東の端にある鹿島神宮と香取神宮には、出雲を意味する神紋が掲げられている。
 恒之は、その二つの神社をもう少し調べることにした。
 鹿島神宮は、茨城県鹿島市にあり、常陸国一宮である。
 常陸風土記に香島という表記が見られるように、古くは香島という社名だったようだ。
 藤原氏の祭神である武甕槌神を奉る奥宮のあたりには鹿園があり鹿が飼われている。
 これが、鹿島と名前が変わった理由とも言われている。

 『ええっ、建羽槌神だって!』
 境内正面にある高房社には、建羽槌神が奉られているとあった。
 伯耆国一宮である倭文神社の祭神は、建葉槌命である。
 『伯耆国の神が東国にまで行っていたのか』
 思わぬところに関連があった。
 奥宮からさらに行くと『要石』があり、水戸黄門仁徳録には、七日七夜掘っても掘りきれずと書かれているそうだ。
 そして、その石は、香取神宮の要石と地下で繋がっているという伝承もある。
 香取の要石が凸形であるのに対し、鹿島は凹形で上部が少しくぼんでいる。

 古くは、香島と香取と言われていたともあり、この二つの神社は対の関係にあったと考えられる。

 そこで、恒之は香取神宮のサイトを開いた。
 香取神宮は、千葉県香取市にあり、下総国一宮である。
 香取神宮には、経津主大神が祭神とされている。
 経津(ふつ)とは、つまり布都御魂であり、須佐之男尊が父から授かった剣で八岐の大蛇を切ったというその剣のことを意味する。
 ニギハヤヒは、その剣を父須佐之男尊より授かり、紀伊半島を制圧した後に石上神宮へ奉ったと言われている。
 ところが、出雲が藤原氏に征服されると、その布都御魂も藤原氏の思いのままに利用されてしまった。
 経津主大神は、鹿島神宮に奉られている武甕槌神とともに大国主命との交渉にあたり、円満裡に大国主命は国土を奉げることになったと、古事記に記されているようなことがその香取神宮の由緒にも書かれていた。
 剣を砂浜に突き刺して国譲りを迫ることが、円満な交渉のようだ。
 それに従わなければどのようなことになるかはおのずと知れている。
 実際は、はたしてどれだけの犠牲が払われたのか分からないし、記録ももちろん残されていない。
 これほど、侵略者にとって都合の良いことはない。
 後世の歴史家が判断するであろうというフレーズを良く耳にするが、都合の悪い歴史は抹消してしまい、征服された方がさも自ら捧げたように歴史を創作するというのも侵略者にとっての基本だということかもしれない。
 権力者は、常に自らにとって都合の良い歴史だけを残すということを記紀から学び取っているようだ。
 だが、古事記には、出雲の神の祟りに怯える天皇の様子が描かれている。
 それは、すなわち、祟りを恐れるような行為を出雲に対して行なったことを意味する。
 どちらにせよ、鹿島と香取両神宮は、藤原氏による征服の結果、祭神も変えられたのだろうと恒之は思った。
 また、この両神宮は、当時、霞ヶ浦から鹿島灘に抜ける香取の海の両岸に位置していた。
 そして、香取の古名が楫取で、それは舵取りを意味し、対岸に位置する両神宮が灯台というか、かなり重要な意味を持っていたと思われる。
 さらに香取神宮の境内には、須佐之男尊をはじめ、大国主命、事代主命、建御名方命などの出雲の神々を奉る社があり、その歴史の片鱗が窺い知れる。
 『そうか、やはり宋書にあったように、出雲の勢力はこの列島の東の端まで及んでいたということだ』
 これらのことは、倭王武の上表文に書かれていたことと一致し、その内容が裏付けられたことになる。
 『ええっ、ということは、藤原氏の出自が東国だという説も根拠を失う。すると、ますます、藤原氏は唐からやってきた勢力であることが濃厚になる』
 居間のパソコンを使っている恒之の側に、洵子がやってきた。
 「ねえ、由美に猫の映像は送ったの?」

 「送ったよ」
 「それで何か返事があった?」
 「安心したって」
 「それだけ?」
 「それと、関東地方にある鹿島神宮と香取神宮の神紋が紀州の熊野三社と似ているけど、どうしてなのかなあって」
 「何のこと?」
 「つまり神社の家紋だよ。その神社の系統とか、歴史を如実に表しているんだよ。鹿島神宮と香取神宮には、藤原氏の神が奉られているのに、出雲の系列を意味する神紋になっているのはどうしてだろうと疑問に思ったようだ」
 「そうなの。由美も難しいことを勉強しているのね。それで、どうしてなのか分かったの?」
 「おそらく、元は出雲の神が奉られていたんだろう。この二つの神社に藤原氏の系統の神が奉られていることもあり、藤原氏は東国からやってきたという説があった。だが、この二つの神社は、藤原氏に征服されてから祭神が替えられているみたいなんだ。神紋がそれを伝えているよ」
 「ふうん。どうして、神紋は替えられなかったのかしら?」
 「どうしてだろう。そこまでは、分からないよ」
 洵子の言うように、祭神を替えるくらいなら神紋を替えることもできたはずだと、恒之も不思議に思った。
 『刀剣や地名などを戦利品として自分たちのものにしたように、神紋も我が物にしたのだろうか。もし、そうだとしたら、逆にそれまでの歴史を残してしまったことになる。あるいは、神紋だけは必死に守り抜いたということなのかもしれない』
 恒之は、そういったことを由美にメールで返信することにした。
 「由美にメールを送るんだけど、何か伝えておくことはあるかい」
 「そうねえ。何か送って欲しい物はあるかなあって、それと夏休みになったら帰っておいでねって」
 「この前、連休で帰ってきたところだろう。夏休みなんて、まだ先のことだよ」
 「そうこうしているうちに、すぐに夏休みになるわよ」
 それからしばらくは、鬱陶しい梅雨空が続いていた。



                      

   


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