我が国の歴史に仕掛けられた          
                  トリック10


    出雲王朝を消せ!


 

 1972年8月、島根県雲南市神原、斐伊川の支流赤川護岸工事の時に、神原神社の真下から古墳が発見され、竪穴式石室から刀剣や勾玉、そして三角縁神獣鏡と言われる中国製の銅鏡が発掘されました。その直径約23センチの三角縁神獣鏡には、『景初三年陳是作』という銘文が刻まれていたのです。
 この発見は、実は、わが国の歴史を変えるほどの大きな意味を持っていました。『景初三年』という年号は、魏の年号で、その銅鏡は、魏で作成された物でした。ところが、今、わが国にあっては、驚くべきことに、この銅鏡は卑弥呼から渡ったものだとされているのです。
 魏志倭人伝では、卑弥呼が使者を魏へ送ったのは、『景初二年(238)』とありました。その使者は、同年12月には、数々の品物を授かって帰国しています。卑弥呼の使者がすでに帰国してしまった翌年である『景初三年(239)』に作成されているにもかかわらず、その銅鏡は、魏に存在してもいない卑弥呼の使者に渡されたというのです。時空の壁を越えなければ、そんなことは成立ちません。
 実は、魏志倭人伝に記載されているように、魏は、『景初三年』の翌年、『正始元年(240)』に、この列島の『倭王』に使者を送っています。その折に、印綬や詔書を始め、多くの品々とともに銅鏡も下賜しています。
 つまり、出雲で発見された『景初三年』の銅鏡は、この時の物だということになります。すなわち、出雲に『倭王』がいたということの『物証』でもあります。
 そうなっては、極めて都合が悪いようで、何としても出雲の地に魏が届けたなどということにならないようにと、卑弥呼から渡ったなどと、平気で歴史を改竄できるのですから、『歴史の専門家』のみなさんはすばらしい技術をお持ちです。何と、卑弥呼の使者は、『景初二年』ではなく、『景初三年』に行ったから、その銅鏡を手に入れているはずだというのです。わが国の『歴史の専門家』の皆様は、そんなあり得もしないことを、『可能』にしてしまいました。時空の壁もなんのその、卑弥呼の使者が行った時を、1年遅らせてしまいました。『歴史の専門家』の皆さんは、自由に歴史を変えておしまいになられます。
 しかし、嘘をつくとその嘘をついたばかりに、また新たな嘘をつかなければならなくなってしまいました。『景初三年』に、卑弥呼の使者が行ったとしますと、翌年『正始元年』に、魏が倭王に使者を送っているのですが、それとの関係はどうなるのだろうということになります。すると、その倭王も卑弥呼だということにしてしまいました。
 では、『正始元年』に、魏は、倭王に、同様に印綬や数々の品物を授けています。その倭王が、卑弥呼だとしたら、魏は、2年連続して、同じように授けたことになります。そんなに魏は気前が良かったのでしょうか。そんなことをするはずはありません。
 すると、驚くことに、卑弥呼の使者は、手ぶらで帰ってきて、その翌年に、魏が持って来たのだそうです。もう、何でもありです。6月に魏へ行き、半年待たされて、手ぶらで帰国したなどと、笑い話にしかなりません。半年待たされたのは、銅鏡が100枚渡されていますから、主にはその作成によるものと考えられます。
 『景初二年』には、遼東半島で公孫氏をめぐる抗争があったから行けるはずはないなど、いろいろ理由をつけて、卑弥呼の使者が『景初三年』に行ったのだと、どうしても変えたいようです。そこまでして、歴史を歪めたいのなら、どうぞご勝手にということにもなってしまいますが、ですが、卑弥呼の使者は、いったい誰に会いに行ったというのでしょう。
 魏志倭人伝には、卑弥呼の使者が『景初二年』に行き、当時の皇帝は大いに悦び、その言葉が詔書に記されてあります。つまり、卑弥呼の使者は、当時の皇帝である明帝に会っているのですが、その明帝は、『景初』三年の正月に亡くなっています。同時に、その年、魏は、喪に服しています。『景初三年』に行こうと思っても、帯方郡で、皇帝が亡くなって喪に服していることが告げられ、都に行くことはできません。たとえ、行けたとしても卑弥呼に詔書を授けた明帝は、この世に存在していません。
 次に、皇帝に即位したのは、8歳の子どもです。『景初三年』になど、魏へ行けるはずもありませんし、行っても明帝はすでにあの世に旅立っていて、もう会えることはできません。いったい、どうやって『景初三年』に行き、明帝からの詔書を持ち帰ったのでしょう。
 その前年に、すでに書かれていたなどといったことを、理由にしないでいただきたい。卑弥呼が、どんな貢物を持ってきたのかまで書かれているのですから、明帝にそこまでの予知能力があったとは思われません。
 どちらにしても、卑弥呼の使者が、『景初三年』に行ったなどということは、あり得ないのです。それを、平気で、卑弥呼の使者は『景初三年』に行ったなどとしている『歴史の専門家』がいるということ自体が、不思議でなりません。よくもそんなあり得もしないことを口にできるものだとあきれてしまいます。これも、唐王朝による改竄が基本となっています。そして、その動機は、この列島を支配していた出雲王朝(大国)を歴史から抹殺するということです。
 もう少し、『歴史の専門家』の皆さんは、自らの頭で物事を考えるようにしなければ、いけません。いつまでも、唐王朝による歴史改竄のお先棒を担いでいても、この列島の本当の歴史に到達することはできません。
 この列島の本当の歴史を隠蔽しようというお考えであるのなら、それはまた別の話になりますが・・・。
     





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