古代史で今を解く


 (6) 2014年07月25日 「集団的自衛権」の本質は、歴史的・民族的動機にあり

 去る7月1日、安倍内閣は、集団的自衛権の行使容認を閣議決定しました。
 しかし、事は、我が国が戦後もう2度と戦争はしないと世界に宣言した現憲法を真っ向から否定することであり、そんなことが、一内閣の判断でできるものではありません。その時々の内閣で、勝手に憲法判断を変えることができるようなことになれば、憲法など何の意味も持たないことになってしまいます。すなわち、民主主義の根幹に関わる「立憲主義」の否定であり、安倍内閣は、非暴力による「クーデター」といった無法行為に至ったとも言えます。
 今後、安倍内閣は、自衛隊による海外での戦闘行為を可能にするための法整備に移ろうとしており、そういった方向に与党だけでなく野党も一部巻き込んで強行しようと目論んでいるようです。しかし、それは、国民の大きな批判に晒されるだけでなく、現行法体系にあっては、存在できない法律を無理やり成立させることであり、決して彼らの思惑が簡単に実行できるはずもありません。
 では、どうして、安倍総理はそんな無謀な犯罪的とも言える行為を敢えて行なおうとしているのでしょう。
 この一連の動きは、安倍氏自身も含めて、我が国の中枢を支配している勢力の本性に起因するものです。
 したがって、「我が国の支配勢力は何者なのか」、それが認識できなければ、この異常な行動の本質を理解することはできません。そして、我が国の支配勢力が何者なのかは、遠く古代の歴史を紐解くことによってのみ認識可能となります。
 
 では、簡単に我が国の歴史を振り返ってみましょう。
 紀元前4世紀頃、アレキサンダー大王の東征から逃れ、トルコ方面から、東アジアにやってきた民族がありました。それは、満州エリアに「東胡」、モンゴルエリアに「匈奴」、その西に「月氏」でした。彼らは、中国王朝から「胡」と呼ばれていましたが、胡の民族同士で激しい戦いになります。(大陸から渡来した4大民族)
 紀元前200年頃、東胡は、匈奴との抗争に敗れて鮮卑と烏丸に分裂し、その東胡の一部がこの列島にやってきました。彼らは、騎馬民族で蹄鉄や武器などで鉄が必須です。つまり、たたら製鉄です。ですから、朝鮮半島を出航し海流に流されていると山陰エリアに流れ着きますが、この列島で一番純度の高い鉄鉱石を産出する斐伊川沿いに拠点を構えました。彼らは、その鉄でもってこの列島全域をも支配下に置くようになります。その強大化した勢力の王が、西暦107年、後漢に朝貢し、160名もの奴隷を献上し、その支配力を誇示しています。この勢力の墓が「四隅突出型古墳」で、斐伊川河口周辺に大型の墳丘墓(西谷古墳群)を残しています。(後漢書)
 紀元2世紀頃になりますと、北アジア一帯は鮮卑の支配するところとなり、逆に匈奴がその攻撃を逃れてこの列島に逃避してきます。
 大陸では東胡と匈奴は激しい民族抗争にありました。その二つの勢力が、この列島で遭遇するのですから、さらなる抗争は避けられないところとなります。当時、この列島の人々は、東胡の厳しい制圧下に置かれていました。その在来の人々とスサノオ尊を中心とする匈奴の勢力が、共同して東胡の圧政を駆逐すべく大きな戦いに挑みます。これが、およそ西暦150年頃から40年間にわたる「倭国大乱」と中国の史書に残された戦乱の意味です。
 その戦いに勝利したスサノオ尊は、在来の勢力の象徴である「卑弥呼」を国家的象徴とし、自らはそれを支える実質的支配者とする国家体制を築きました。今で言う天皇と総理大臣といったところでしょうか。その国名として、卑弥呼の国を「一国」とし、自らを「大国」とします。それは、「一」と「大」の合体で、「天」という文字が構成されるからであります。
 ここに、国家的象徴の「天」が誕生し、その連合国家は、列島各地で大きく称えられ、全国津々浦々の神社で祀られることとなりました。神社の参道に築かれている鳥居は、その国家的象徴である「天」の文字を象ったものです。また、それ以降、今の総理大臣に相当する「大国主命」が、代々引き継がれていくことにもなりました。この勢力の墓が「前方後円墳」で、全国各地、さらには朝鮮半島にまで築かれました。あるいは、その形状も、「天」の文字に起因しているのかもしれません。(前方後円墳の意味を探る)
 ところが、この列島で大きな力を誇った匈奴による連合国家も、鮮卑によって統一された中国王朝との激しい抗争に巻き込まれます。
 581年、楊堅が隋を建国し、589年中国全土を統一しました。楊堅は、鮮卑系の北周の系列にあり、中国王朝は、鮮卑によって統一されたことになります。したがって、鮮卑と匈奴が、大陸とこの列島で対峙するという構図となったのです。そうなりますと、双方とも決して穏やかではありません。
 西暦600年、この列島から隋に使者が送られ、その使者が、この列島のことを伝えています。しかし、楊堅は、その使者が伝える出雲王朝の国家体制には道理が無いとして、訓令でもって改めさせたとあります。早くも両国間に火花が飛ぶ状態になったとも言えます。
 煬帝の時代、民衆への度重なる負担で各地に反乱が発生し、隋は大混乱に陥ります。その混乱を鎮静させるべく、隋の武将だった李淵は、首都大興城を制圧し、唐を建国しました。とは言え、隋も唐も同じ鮮卑による貴族政治であって、その王朝の担い手が代わったに過ぎません。今で言う政権交代といったところです。
 そして、649年、李治が、第3代皇帝位に就くも病弱だったため、655年に皇后となった武則天が実質的支配者となります。当時、唐王朝は道教を推奨していて、その道教の考え方を基にして、660年、武則天は皇帝を『天皇』とし、自らも『天后』と改名しています。ここに、我が国の今にまで続く天皇の『ルーツ』があります。武則「天」の幼名・本名は武「照」です。つまり、天皇の祖先とされる「天照」とは、天皇の命名者である武則天を意味していました。その武則天は、後に即位し聖神皇帝を名乗ります。つまり、聖「神」皇帝たる「武」則天で、「神武」です。すなわち、天皇の祖先が天照だとか、初代天皇が神武だといったことは、天皇のルーツが武則天にあることを伝えていました。(唐王朝による列島征服の軌跡)
 さて、同年、660年に朝鮮半島は大きな戦乱状態に陥ります。百済と高麗が新羅を攻め、その新羅が唐に救援を求め、唐王朝は、この期にとばかりに、東アジアの制圧を目指します。
 662年、百済は、この列島の「倭国」にも援軍を要請してきますが、その翌年663年の10月、劉仁軌率いる唐王朝軍は、白江口にて倭兵と遭遇しています。これが、『白村江の戦い』と言われており、仁軌軍は、四戦して全勝し、倭国の舟四百艘を焼き、煙炎は天を焦がして海水は朱に染まったと記されています。倭国、つまり出雲王朝は、5万人とも言われる軍勢を百済救援へと送り込みましたが、ことごとく殲滅されてしまいます。その直後に百済は滅ぼされてしまい、倭国もその主力部隊を失ったため、この列島は仁軌率いる唐王朝軍にあえなく占領・支配されることになってしまいました。
 西暦663年11月18日(旧暦10月10日)、唐王朝によって、この列島の都があった「出雲(当時はやまとと呼ばれていました)」の地が占領・征服され、この列島全域もその支配下に置かれました。その詳細は、資治通鑑に残されています。(資治通鑑)
 つまり、この列島は、再び、東胡の勢力によって征服されたことになります。これこそが、古事記にある「天の岩戸」の説話の意味するところです。
 そして、唐王朝の勢力は、支配者としてこの列島の人々を奴隷の如くに隷属下に置きます。彼らは、唐(藤)を源(原)としているという意味で、「藤原氏」を構成し、それ以来この列島を支配し続けることになったのです。これ以後、在来の人々は、土地も奪われ、自らの歴史すら奪われ、唐王朝によって都合よく改ざんされた架空の歴史がこの列島の歴史だとして洗脳支配されていくことになりました。
 ところが、この列島を植民地支配していた唐王朝も、907年、朱全忠等に滅ぼされてこの列島に流れ着きます。その時に持ち込んだ宝物が今も東大寺正倉院で保管されています。
 そして、彼らは、再び大陸を支配下にしろと、子孫にその「指令」を残しました。その指令が残されたものが、今に伝わる「古事記」です。(古事記に残された大陸回帰の指令)
 その古事記にある「因幡の白兎」のお話とは、『この列島の人々を騙して利用し、再び大陸の支配者として舞い戻れ。しかし、決してそのことは口にするな』というのがそこに秘められたメッセージです。ですから、彼らは、天皇や藤原氏が何者なのかも、自らの本性や思惑に関わるようなことは一切口にしません。常に、「滿蒙は我が国の生命線」だの「自存自衛」、あるいは「日本国民を守るため」などといった口実を掲げて大陸の支配へ邁進します。
 古事記に残された指令に従い、我が国の支配勢力は、秀吉の時代、あるいは明治維新以降大陸へ侵略していきました。唐王朝の残党勢力というのが、この列島の中枢に巣食う勢力の本性で、「唐王朝再興」こそが、彼らの存在意義です。
 彼らは、唐王朝がこの列島を占領・征服したことも、再び大陸を支配下にしようなどと思っていることも秘匿したまま、彼らにとって都合の悪い歴史や理念や、彼らを阻む勢力をも抹殺しようとします。今の執拗な憲法改定や集団的自衛権の行使といった動きもその動機に基づくものです。
 また、こういった動きは今に始まったことではありません。60年代以降、我が国の現職総理大臣は、毎年、年頭に伊勢神宮に参拝し、必ずや大陸侵略と唐王朝再興を果たしますと祭神「天照」つまり「武則天」に誓っています。
 消費税の増税も、原発推進も、集団的自衛権も、憲法改定もみな一つの動機によるものです。消費税の増税は戦費調達、原発は核兵器の原料の確保とその製造技術の維持、あるいは自然の地震だと思わせて地下核実験をすでに行っているのかもしれません。そして、集団的自衛権や憲法改定とは、戦争遂行の為の法的体制の確立です。
 唐王朝の残党勢力による日本の全権掌握と大陸侵略、唐王朝再興、ここにこそ彼らの秘めた思惑があります。
 言ってみれば、明治維新以降の再現ということでもあります。(明治維新とは?)
 『この前は失敗しましたが、次は米軍という強力な用心棒を用意しているので、絶対に成功させてみせます。大陸にも秘かに手引きをする味方を忍ばせてございます。武則天様もう少しお待ちください。永年の悲願である唐王朝再興も間もなくです。大丈夫です、誰も我々の思惑には気づいてなどいません』というのが、彼らの秘めた思いなのかもしれません。






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